Hacker S Revenge

ハッカーの逆襲

英語版URL: http://www.oreilly.com/catalog/opensources/book/raymond2.html

本翻訳の最新版は、http://www.cus.cam.ac.uk/~yi205/revenge-j.htmlにあります。

プロジェクト杉田玄白正式参加テキスト

エリック・S・レイモンド(Eric S. Raymond) <moc.susryht.krans|rse#moc.susryht.krans|rse> 著 (1998.12)

稲葉祐之(Yushi INABA) <ku.ca.mac.suc|502iy#ku.ca.mac.suc|502iy> 訳 (1999.6.1)

僕がウェブ上で「ハッカーの国小史(A Brief History of Hackerdom)」の最初のバージョンを公開したのは、1996年のことだった。僕は長いこと、そう「新・ハッカー辞典(The New Hacker's Dictionary)」の初版を出した1990年よりもずっと以前から、文化としてのハッカー・カルチャーに魅せられていた。1993年半ばまでに、僕自身を含む多くの人たちが、僕のことをハッカー種族の文化史家、あるいは原住の民族誌家であるかのように考えてくれるようになった。この役割は、僕にとって快適なものだった。

当時は、僕のこのアマチュア人類学者みたいな活動が、その後におこる重大な変化のきっかけになろうとは夢にも思わなかった。だからそれが起こった時は、僕以上に驚いた人なんかいないと思ったほど。そしてその驚きの声は、今でもハッカー・カルチャー、そしてテクノロジーとビジネスの世界にこだましている。

ここでは、あの1998年1月のオープン・ソース革命の銃声が世界に鳴り響くまでに次々に起こった出来事を、僕なりの見方で要約してみようと思う。僕らがその時以来歩んで来た、注目の道のりを考えながらね。そして、将来への一応の展望を示してみようと思う。

-ブルックスの法則をこえて

僕のLinuxとの最初の出合いは、当時の草分けだったディストリビューションYggdrasil版のCD-ROMで、1993年後半のことだった。その時までに僕はすでに15年以上もの間、ハッカー・カルチャーというものにのめり込んでいた。最も初期の体験は、1970年代後半のプリミティブなARPAnetとともにあった。ついでに少しばかりの間だったけどITSマシン上にもお邪魔した。1984年にFree Software Foundation (FSF)が立ち上がるんだけど、それより以前から僕はすでにフリー・ソフトウェアを書いていてUsenetにポストしていたし、FSFでもその初期の投稿者の一人だった。そしてちょうど「新・ハッカー辞典(The New Hacker's Dictionary)」第2版を出版したばかりだった。だから僕は、ハッカー・カルチャー(とその限界)についてよく分かっているつもりだった。

それでもLinuxとの出合いは、ショックだった。僕はハッカー・カルチャーの中で何年もの間活動してきたというのに、アマチュア・ハッカー達は(そうする才能はおそらくあるにも関わらず)使用に耐えるマルチ・タスキングOSを創り出すのに必要な資源やスキルを持ち寄ることは多分できないだろう、という未検証の仮説を頭の中に置いていた。たとえば10年を費やして、結局HURDのデベロッパー達は明らかにその開発に失敗していた。

でも彼等が失敗したことを、リーヌス・トーヴァルズ(Linus Torvalds)と彼のコミュニティは成功させていた。しかも彼等は、単に安定性とUnixインターフェイスの最小限の必要条件を満たしただけではなかった。否、彼らは、何百メガバイトものプログラム、文書、その他のリソースを提供して、その豊富さとスマートさですっかり過去の僕の思いこみを吹き飛ばしてしまったんだ。インターネット・ツールのフル・スイート、DTPソフトウェア、グラフィクス・サポート、エディタ、ゲーム・・・君も名前を挙げられるだろう?

実際に機能するシステムとして、すばらしいコードの御馳走が目の前に広がっているのを見ることは、単に頭の中で、おそらくすべてのパーツがそこにポストされているんだろうな、ということを知っているよりも遥かに強烈な体験だった。それはあたかも、バラバラの車のパーツの山を何年も仕分けしてきたところに、同じ部品から組み立てられ、ドアは開きキーはささったまま揺れていて、そのパワーを約束するエンジンは静かに回っている、そんなぴかぴかの真紅のフェラーリに突然出くわすようなものだった。

突然それまでの20年間観察してきたハッカーの伝統が、じつは新たな活気に満ちた方法で生きているようにみえてきた。ある意味、僕はこのコミュニティの一部を作り上げてきた。というのも僕の手になるいくつかのプロジェクトがそれに付け加わってきたわけだから。でも僕はもっと深く踏み込んでみたかった。だって僕が出会ったこの嬉しさは、また戸惑いを深めることでもあったんだ。こいつは面白すぎだ!

ソフトウェア・エンジニアリング界の伝承は、ブルックスの法則(Brook's Law)によって支配されている。これは、参加しているプログラマーがN人に増える場合、仕事はそれに比例してはかどるけど、複雑さとバグに対するもろさはNの2乗に比例してしまうという予言。Nの2乗というのは、デベロッパーのコードの基点間のコミュニケーション・パス(とコードの考えうる接点)の数にあたる。

つまりブルックスの法則は、数千人もの参加者がいるようなプロジェクトは、もろくて不安定な混乱に陥るはずだと予言しているわけだ。しかしどこをどうしたのかLinuxコミュニティは、このN2乗効果に打ち克って、しかも驚くほど高品質のOSを作り上げた。そこで僕は、彼等がどうやってそれを成し遂げたのかを理解しようと決心した。

僕は一つの理論を展開するために、コミュニティへの参加と間近での観察に3年、さらにその理論を実験によって検証するためにさらに1年を費やした。それから僕が見てきたことを説明するために、机に向かって「伽藍とバザール(The Cathedral and the Bazaar)」(注 http://www.tuxedo.org/~esr/writings/cathedral-bazaar)を書いたんだ。

-物語づくりと神話の誕生

さてそれまでで最も有効なソフトウェア開発の方法を展開してきたにもかかわらず、そのことに全く気付いていないコミュニティ、それが僕が見たものだった。つまり、ある有効な実践法が、それがなぜうまくいくのかを説明する理論や言語としてではなく、一連の習慣として進化し、模倣と例示によって伝えられていたんだ。

振り返ってみると、そのような理論や言語に欠けていたということは、2つの意味で僕らを妨げていた。第一に、僕達はこの独自のやり方をどうやって向上させるかということを、筋道だてて考えることができなかった。そして第二に、僕達はこの方法を他の誰かに説明したり、売ったりすることができなかった。

当時、僕はこの第一の意味について考えているだけだった。論文を書くうえでの僕の唯一の目的は、ハッカー・カルチャーに、その内部で使うための適当な言語を与え、自分で自分のことを説明できるようにすることだった。だから僕は、このコミュニティの一連の習慣から演繹されるロジックを記述するための適切でヴィヴィッドなメタファー(隠喩)を使って、物語としての枠組みを与えながら、僕が見てきたことを記録した。

「伽藍とバザール」では、本当に重要な発見というものはなにもなかったし、僕はそのロジックを記述する方法を発明したわけでもなかった。この論文で新しいことは何かというと、それは事実ではなくて、そのメタファーと語り口-読み手が新しい見方で事実を見るように促す、シンプルでパワフルな物語-だったんだ。つまり僕は、生まれつつあるハッカー・カルチャーの神話について、わかりやすくなるように少しばかり加工を施そうとしていたわけ。

僕は1997年5月のドイツ・バイエルンでのLinux会議(Linux Kongress)で、そのフル・ペーパーを発表したんだけど、その論文が聴衆(ほとんど英語のネイティブ・スピーカーはいなかった)を夢中にさせ、しかも万雷の拍手を受けたことで、僕は何らかのムーブメントに乗っているということが確信できた。でも、僕が木曜の夜の宴席でティム・オライリー(Tim O'Reilly)の隣に座っちゃうというものすごいチャンスが、次々に起ったとても重要な出来事へのきっかけになったんだ。

僕は長いことオライリーという会社のもつスタイルのファンだったから、何年もの間ティムに会えるのを待ち望んできた。僕達は、幅広い会話を交わした(そのほとんどは、僕らに共通の古典的なSFへの興味を探るというものだった)。そしてその結果ティムは、その年の後半に行われたPerlのカンファレンスで「伽藍とバザール」を講演するよう招待してくれることになった。

はっきりいって、その論文は再び好評を博し、歓呼とスタンディング・オベーションで迎えられた。バイエルンのカンファレンス以降に受け取った電子メールから、僕は「伽藍とバザール」についての話題が、まるで野火のようにインターネットに広がっているのを知った。多くの聴衆は、「伽藍とバザール」をすでに読んでいて、僕のスピーチは彼等に新しいことを明らかにするというよりも、新しい言葉が現れ、そしてその言葉が現実にうまくはまっていることに気付いたことを祝うのによい機会だった。あのスタンディング・オベーションは、僕の業績にたいしてというよりも、まさにハッカー・カルチャーそのものに向けられたものだった。

僕はその時知らなかったんだけど、例の物語づくりの実験が口火になって、さらに大きな火をつけることになった。僕のスピーチが本当に新しいものであったと感じた人々のうちの何人かは、ネットスケープ・コミュニケーションズ社の社員だったんだ。そしてそのとき、ネットスケープは問題を抱えていた。

インターネット・テクノロジー企業の先駆け、そしてウォール街の寵児だったネットスケープ社は、マイクロソフトによる破壊の標的になっていた。ネットスケープ社のブラウザが具現化したオープンなウェブ標準によって、このレッドモンドの巨人にとって利益の源であるPCデスクトップの独占が浸食されるかもしれない。マイクロソフトはまさにそこを恐れたんだ。何十億ドルもの資金と、のちに反トラスト法違反の訴訟を引き起こしたあやしげな策略が、ネットスケープのブラウザを潰すために投入された。

ネットスケープにとって問題だったのは、(彼らの総収入のうちのほんのわずかばかりにしかならない)ブラウザ関係の儲けなんかではなく、彼らにとってより重要なサーバー・ビジネスでの生存領域をどうにかして維持することだった。もしマイクロソフトのインターネット・エクスプローラが市場を支配するようになれば、マイクロソフトはウェブのプロトコルを、オープン・スタンダードとは程遠いものにねじ曲げることができるようになるだろう。それは、マイクロソフトのサーバーだけがサービスを提供できるような、プロプライエタリなチャネルにできるということなんだ(訳注 proprietary:ソースが公開されておらず、勝手な改編も許されないような独自仕様のこと。たいていは(付帯サービスのみならず)プログラム自体が有料で配付される。「プロプライエタリなUnix(=Solarisなど)」みたいに使われる。)。

ネットスケープの社内では、この脅威への対処の仕方について真剣な議論があった。当初提案された選択肢の一つは、ネットスケープのブラウザのソース・コードを公開してしまうというものだった。でもそうすることは、とても難しいことだった。それは、インターネット・エクスプローラの支配を防ぐことができる、と信じるに足る理由も無しに議論するようなものだったからね。

僕はまだその時、そんなことは知らなかったんだけど、「伽藍とバザール」はネットスケープにソースの公開を決断させる大きな力になった。1997年の冬、僕が次の論文のための資料に取り組んでいたころ、ネットスケープはビジネスのルールを書き換えた。そして彼らが、僕らのコミュニティに前代未聞の機会を与えてくれたことで、舞台は整ったんだ。

-マウンテン・ビューへの道

1998年1月22日、ネットスケープは同社のクライアント・ソフトのソース・コードをインターネット上に公開すると発表、後日そのニュースを僕が聞いたすぐ後に、僕はネットスケープ社のCEOジム・バークスデイル(Jim Barksdale)が国内メディアの記者に、この決定に際して僕の論文が「重要なインスピレーション」となったと述べていたことを知った。

これはコンピュータ関係の専門誌のコメンテータが後に、「世界に鳴り響いた銃声」と呼んだ出来事だった。そしてバークスデイルは、僕がそれを受けるかどうかに関係なく、ネットスケープにとってのトーマス・ペイン(Thomas Paine)(訳注:18世紀の革命思想家。英国に生まれ、米国で活動。米国独立の気運を盛り上げたり、フランス革命を擁護したり。)の役を割り振った。ハッカー・カルチャーの歴史開闢以来初めて、ウォール街の寵児であるこのフォーチュン500企業は、<僕らのやり方が正しい>という信念、もっとはっきりといえば「僕らのやり方」が正しいという<僕の分析>に、その将来を託したんだ。

それは誇張ではなく、受け止めるにはちょっとした衝撃だった。僕は、「伽藍とバザール」がハッカー・カルチャーが自分自身についてのイメージを改めたことについてはあまり驚きはしなかった。それはつまり、僕が目指してきた結果だったわけだからね。でも僕は、ハッカー・カルチャーの外側でこんな成功を収めたというニュースには、(いくら控えめにいっても)大いに驚かされた。だからその知らせを耳にしてからの最初の数時間というもの、僕は必死に考えた。Linuxという国について、ハッカー・コミュニティについて。ネットスケープについて。そして僕自身が、個人として次のステップに踏み出すのに必要なものを持っているかどうかについて。

ネットスケープの賭けがうまくいくよう支援することが、ハッカー・カルチャーにとって、それゆえ僕個人にとっても、大いに優先させるべきことだという結論に達するのは、そう難しいことではなかった。もしネットスケープがギャンブルにしくじれば、僕らハッカーはおそらく、その失敗に対する非難を頭から浴びることになるだろうし、もうあと10年は信用されないだろう。そうなってはたまらない。

それまでの20年間というもの、ハッカー・カルチャーのさまざまな時期を通して、僕はその中で生きてきた。それは、すばらしいアイディアから始まって、頼もしいスタートを切り、そして優れたテクノロジーを持っていたプロジェクトが、巧妙なマーケティングによって潰されるのをくり返し見てきた20年間だった。ほとんどの場合、古くはIBMの、最近ではマイクロソフトやその同類達が現実の世界での戦利品をさらっていくのを見るはめになるにもかかわらず、ハッカー達が夢を追い、額に汗してコードを組むのを見てきた20年だった。そしてゲットー-そこは面白い友人がたくさんいる、むしろ快適なゲットーではあったけど、やはり「変人専用居住区」と刻まれた、巨大でつかみどころのない偏見の壁に仕切られていた-の中での20年だった。

ネットスケープ社の発表で、たとえそれが一瞬ではあっても、この壁に亀裂が入った。ビジネス界は、彼らの持つ「ハッカーども」の能力についての先入観を、振り払わさせられた。でも、怠惰な心の習慣は、巨大な慣性を持っている。もしネットスケープが失敗したら、よしんば彼らが成功した場合でも、その実験が追試を試みるに値しないようなユニークな一発仕事と思われるかも知れない。そうなったら、僕らは以前と同じ、しかもより高い塀に囲まれたゲットーに戻ることになるだろう。

そうならないためには、僕らにはネットスケープの成功が必要だった。僕はバザール方式の開発から学んだことをよく考えてネットスケープに連絡をつけ、彼らのライセンス展開を、そして戦略の詳細を詰めるのに必要な支援を申し出たんだ。2月の初め、僕は彼らの求めに応じてマウンテン・ビューに飛び、ネットスケープ本社の様々なグループとの7時間にわたる会議に出席した。そしてMozilla Public LicenseとMozillaとなってゆくもののアウトラインを彼らが練り上げるのを手伝った。

そこにいる間に、僕は何人かのシリコン・バレー、そして国内のLinuxコミュニティにおける中心人物と会見した(この部分の経緯については、オープン・ソース・ウェブサイトの歴史のページにより詳細に語られている)(注 http://www.opensource.org/history.html)。ネットスケープへの支援は確かに短期的な優先事項だったけど、僕と話をした誰もがすでに、ネットスケープの発表をフォローするためのなんらかの長期戦略が必要であることを悟っていた。それを展開する時が来たわけだ。

-「オープン・ソース」の起原

さて、そのような戦略のアウトラインを考えるのは簡単だった。僕らには、公の場で「伽藍とバザール」で先鞭をつけた実際的な議論を踏襲して、それをさらに発展させ、がんがん進めていく必要があった。ネットスケープ社自身にとっては、投資家に自らのとる戦略が狂気の沙汰ではないことを納得させることが重要だったから、彼らにそのような議論を促すよう支援してもらえることが期待できた。僕らは、非常に早い時期からティム・オライリー(と彼を通じて彼の会社オライリー&アソシエイツ)を引き込んだ。

しかし本当の躍進は、僕らがさらにやるべきことは要するにマーケティング・キャンペーンだということを、そしてそれを機能させるためには(語り、イメージを構築し、新たなブランドづくりをするという)マーケティングのテクニックが必要だということを、僕ら自身が受け入れたことだ。

そこで、「オープン・ソース」という用語-それはのちのオープン・ソース運動(そして最終的にはオープン・ソース・イニシアティブという組織)の最初の参加者たちが、2月3日にマウンテン・ビューにあるVA・リサーチ社(VA Research)のオフィスで行われたミーティングで考案されたものなんだけど-が生まれたんだ。

振り返ってみれば、「フリー・ソフトウェア」という用語が、何年にもわたって我々の運動に大きなダメージを与えてきたことは、僕らにとって明らかに思えた。それはよく知られているように「ビール無料(free beer)/言論の自由(free speech)」みたいにフリーという言葉のもつ曖昧さから生じているんだけど、そのほとんどはもっとひどい。だって「フリー・ソフトウェア」という用語には、知的所有権に対する敵意、共産主義を始め、その他経営情報システムのマネージャー達にとても好かれるとは思えないような考え方が強く絡んでいるんだから。

FSFが、あらゆる種類の知的所有権にたいして敵意を持っているわけではない、あるいは自らの立場は共産主義的なのもではないというような議論は、当時から、そして今でも要点を外れたものだ。僕らはそんなことは前から承知していた。あのネットスケープの発表以来のプレッシャーのもとで僕らが認識したのは、FSFの実際の立場なんかたいして問題じゃないってことだった。むしろFSFによる伝導活動が(業界誌や実業界が抱いているネガティブなステレオタイプを「フリー・ソフトウェア」に結びつけるような)反動をもらたしてきたという事実こそが、じつは問題だったんだ。

ネットスケープ以後の僕らの成功は、ネガティブなFSFのステレオタイプを、僕ら自身の<ポジティブな>それ-つまりより高度の信頼性とより低いコストそしてより優れた特性という、実利的でマネージャーや投資家達に耳触りよく響く物語-に置き換えられるかどうかにかかっていた。

伝統的なマーケティング用語でいえば、僕らの仕事は製品に新たなブランドを与え、実業界が買いに殺到するような評判を確立するというものだったんだ。

リーヌス・トーヴァルズは、最初の会議の翌日にはこのアイディアを指示してくれた。僕らは、数日後には早速行動を開始した。ブルース・ペレンス(Bruce Perence)は、opensource.orgドメインを登録してもらって、一週間もしないうちにオープン・ソースのウェブ・サイト(注 http://www.opensource.edu/)の最初のバージョンをアップしてくれた。彼はまた、デビアン・フリー・ソフトウェア・ガイドライン(the Debian Free Software Guideline)を「オープン・ソース定義文書(the Open Source Definition; OSD)」(注 http://www.opensource.org/osd.html)にするよう奨めてくれたし、さらに僕らがOSDに準拠した製品に「オープン・ソース」であることを示す認定マークの使用を合法的に求めることができるように、「オープン・ソース」を登録する手続きを始めてくれた。

僕にはこの初期の段階においてさえ、長期戦略を押し進めるための個々の方策までもがかなり明らかになっていた(そしてそれらは、最初の会議ではっきりと議論されていた)。

<ボトム・アップ・アプローチは忘れろ;トップ・ダウンでいけ>

なによりも明らかなのは、(合理的な議論で自分の上司を説得するエンジニアに依存するような)ボトム・アップ方式での伝導活動という Unix伝統の戦略は失敗だったということ。これは、あまりに素朴なやり方で、簡単にマイクロソフトを勝たせてしまったアプローチだ。もっといえば、ネットスケープの打開策は、このようなやり方から出てきたものではなかった。それは、戦略的な意思決定者(ジム・バークスデイル)がそのための手がかりを得て、それからそのビジョンを部下に押し付けたから出来たことなんだ。

つまり結論はこれしかなかった。それは、僕らはボトム・アップでいく代わりに、トップ・ダウンで伝導活動をすべきだ-つまり最高経営責任者/最高技術責任者/最高情報システム責任者系の人たちを魅了するように、彼らに対して直接努力を払うべきだ-ということだったんだ。

<Linuxが僕らの最高の実例だ>

Linuxを売り込むことが、僕らの中心的な推進力とならなければならない。確かにそのほかにもオープン・ソースの世界で起こっていることはあるし、この運動はそれらの示す方向にも丁重に礼を尽くすだろう。でもLinuxは、最高の認知度と、最も広範なソフトウェア基盤と、最大の開発者コミュニティとともに始まった。もしLinuxがその自らの躍進をものにできなければ、実際的なはなし、他の誰もわずかな見込みさえ持てないだろう。

<フォーチュン500企業を引き込め>

(小企業や家族経営の事務所なんかが最も明らかな例なんだけど)より多くのカネを落とすマーケット・セグメントは他にもある。でもそれらのマーケットは拡散してしまっているから、とらえどころがないんだ。一方フォーチュン500に入る企業は単にカネを<もっている>だけじゃなくて、比較的突き止めやすい場所に資金を集中的に投入してくれる。それでソフトウェア産業は多くの場合、フォーチュン500企業のビジネス・マーケットが示す通りに投資する。だからこそ、僕らが真っ先に説得する必要があるのは、これらフォーチュン500企業というわけ。

<フォーチュン500に情報提供している一流メディアを取り込め>

フォーチュン500企業をターゲットにするという選択はすなわち、トップ・レベルの意思決定者や投資家の間の意見の雰囲気を形成するようなメディアを引き込む必要があるということだ。具体的には、ニューヨーク・タイムズ(the New York Times)、ウォールストリート・ジャーナル(the Wall Street Journal)、エコノミスト(the Economist)、フォーブス(Forbes)、バロンズ・マガジン(Barron's Magazine)といったところかな。

コンピュータ業界の専門誌を取り込むことは必要だけど、それだけじゃ十分じゃない。むしろ専門誌の取込みは、これら主流のエリート・メディアを通じてウォール街をかき回すためにどうしても必要な前提条件、ということになるわけなんだ。

<ハッカー達に草の根マーケティング戦術を身につけさせろ>

メイン・ストリームへのはたらきかけと同じくらい大切なのが、ハッカー・コミュニティ自体を訓練することだ、ということもまた明らか。草の根レベルで多くのハッカー達が役に立たない議論をしていたんじゃ、相手に訴えかけることのできる言葉を話せる人がほんのわずかいたって十分じゃないからね。

<オープン・ソースの認定マークをその純粋さを保つために活用せよ>

僕らの直面した問題の一つが、「オープン・ソース」という言葉が、それを改悪し、僕らのメッセージを失わせようとするマイクロソフトや他の大きなベンダーによって「取り入れられ、拡大される」(訳注 この「取込み、拡大」アプローチについてはハロウィーン文書(http://www.opensource.org/halloween/)に詳しく書いてあります。)、という可能性だ。ブルース・ペレンスと僕が、早い段階で認定商標としてこの語を登録し、オープン・ソース定義文書(デビアン・フリー・ソフトウェア・ガイドラインのうちの一冊)に結び付けたのは、そのためだったんだ。これで、法的手段に訴えるという脅しによって、「オープン・ソース」という言葉を乱用する可能性のある連中をおとなしくさせるておくことができるわけだ。

-どういうわけか革命家

この手の戦略をたてるのは比較的簡単だったんだけど、(とりあえず僕にとって)難しかったのは、果たさなければならない自分独自の役割を受け入れるということ。

最初の頃に僕が悟ったことは、マスコミは抽象概念をほとんど全く受け付けないということだ。彼らは、目の前にばかでっかい個性を見せつけでもしない限り、その思想についてなんて書こうとはしない。つまり全ては物語であり、ドラマであり、戦いであり、十分にぴりっとしたものでなければならないんだ。さもなければ、ほとんどの記者はただ寝にはいってしまうだけだろうし、もし彼らが寝なかったとしても、編集者たちが寝てしまうだろうね。

さて、ネットスケープ社のくれたチャンスに対してコミュニティ側の反応を前面に出す時に、とにかく個性的な性格の人が必要になるだろうということはわかっていた。扇動者に、スピン・ドクター(訳注 政治問題などでマスコミに偏った情報・解釈を与えるのに長けたスポークスマン。)、プロパガンダ屋、外交官に伝道師。つまり歌って踊れて、屋根の上から大声張り上げて、記者あしらいが良くて、企業のトップ達と密談が出来て、そして<ここで革命が起こっているぞ!>というメッセージが次々に出てくるように輪転機をばんばんたたくような人、を僕らは必要としていた。

他の多くのハッカーたちと違って、僕の頭脳は外向的な人との相性が良かったし、マスコミの取扱いについてもたっぷり経験を積んでいた。だからまわりを見回しても、エバンジェリストとしての役割を演じるのにより適任な人を見い出すことはできなかった。でもこの仕事、本当はやりたくなかったんだ。だって何ヶ月、ひょっとしたら何年も僕個人の生活が犠牲になることはわかっていたからね。プライバシーはなくなるし、主流のメディアからはおたくとして誇張されるだろうし、さらに悪いことにはハッカー・コミュニティの一部からは裏切り者とか天狗呼ばわりされて終わるかもしれない。これらの悪い結末すべてを足しあわせたものよりもさらにまずいことに、僕には多分もうハッキングする時間がなくなってしまうだろう!

僕は自分自身に問いかけることになった。おまえは、ハッカー種族が、勝つためにやるべきことを全部しそこなっているところを見るのにうんざりしているんだろう?ってね。僕の答えはイエスだった。そしてそう決心したから、僕は公の人間、そしてマスコミ有名人という、まあ好きとはいえないけど必要な仕事に身を投じることにしたんだ。

僕は「新・ハッカー辞典」を編集する際に、メディアの変わり身のはやさについての基本はある程度わかっていた。今回は、それをもっと真剣に考え、メディア操作についての全体的な理論を展開して、それを実践することにした。ここにはその理論については詳しくは書かないけど、それは要するに僕が「魅力の不一致」と名付けている、エバンジェリストについてのちょっとした好奇心を利用するやり方なんだ。つまり、オープン・ソースというアイディアを広めるために、エバンジェリスト本人に対する好奇心を利用するというわけ。

「オープン・ソース」というブランド、およびエバンジェリストとしての僕自身についての慎重なプロモーションという組み合わせは、僕が予想した通りの良い結果と悪い結果とをもたらした。ネットスケープのあの発表の後の10ヶ月はつまり、Linuxとオープン・ソース一般に対するメディアの報道範囲が、着実にしかも急激に広まったことに象徴される。この期間中に書かれた記事のうちの大体3分の1には僕の名前が直接出ていたし、残る3分の2は、僕を記事を書くための情報源として使っていた。同時に、少数のしつこいハッカーたちが、僕のことを邪悪なエゴイストだと宣告した。(多少難しいことではあったけど)この両方の結果についても、僕はユーモアを失わずになんとか対応した。

当初の僕の計画では、最終的には僕はエバンジェリストとしての役割を、個人あるいは組織いずれかの後継者に譲るつもりだった。カリスマのもつ影響力が、オープン・ソースのもつ広範で組織的な社会的地位よりも小さなものになる時がくるはずだから(それは早ければ早いほどいいんだ、個人的には)。このエッセイを書いてる時点では僕は、自分の個人的なコネクションと、慎重に築いてきた報道陣からの評判をオープン・ソース・イニシアティブ(オープン・ソースの商標を管理するために作られた非営利法人)にあげちゃうつもりだ。今のところ僕はこの団体の会長をしてるけど、いつまでもとどまるつもりもないし、そうはならないだろうと思っている。

-運動の実際

オープン・ソース運動はマウンテン・ビューの会合から始まって、(ネットスケープ、オライリー社を含む)インターネット上の同志達のインフォーマルなネットワークを急速に取り込んでいった。これから僕が「僕ら」という時は、このネットワークのことをさしていると思って。

2月3日から、ネットスケープによる発表が実際にあった3月31日まで、僕らが一番懸念したことはといえば、「オープン・ソース」というブランド、そしてそれがビジネス界を説得するための決め手になるんだという論拠をハッカー・コミュニティに納得させることだった。一旦そうなれば、ことは僕らが考えたよりも簡単だった。僕らは、FSFのように理論一辺倒ではないメッセージを求める需要が積もり積もっていることがわかったんだ。

3月7日のフリー・ソフトウェア・サミット(the Free Software Summit)で、20人ほどのハッカー・コミュニティの指導者達が「オープン・ソース」条項採択に賛成した時、彼等はデベロッパーの草の根レベルではもうとっくに明らかだった流れを正式に認めたわけだ。マウンテン・ビューでの会合から6週間もしないうちに、コミュニティーの大多数が僕らの言葉を使って話をしていた。

サミットそしてネットスケープの実際の発表が終わった4月、僕らの関心は、早い時期からオープン・ソースを支持してきたひとたちの取り込みへ移った。これは、ネットスケープの動向を周りから浮いたものに見せないようにするため、そしてもしネットスケープがあまりうまくいかなかったり、目標を達成できなかった時のために、僕ら自身に保険をかけておくためだ。

この頃が最も心配な時期だった。表面上は、すべてが実を結んでいくように見えたけどね。Linuxは、技術的にますます強さを増していた。もっと広い意味でのオープン・ソース現象は、専門誌の取材がみるみる増えてゆくのを謳歌していたし、主流メディアの積極的な取材さえ受けはじめていた。それでもなお、僕らの成功はまだまだまだデリケートなものだということが、気にかかっていた。初期の怒濤のような投稿がおさまった後、コミュニティの Mozillaへの参加は、Motif(訳注 詳しくはhttp://www.opengroup.org/motif/)の要求を満たすことができなくて、ひどく低迷していた。それに独立系大手ソフトウェア・ベンダーでLinuxへのポーティングを手掛けているところなんかなかったし。ネットスケープはまだ孤立していて、ブラウザのマーケット・シェアはインターネット・エクスプローラに食われっぱなしだった。もうなにか深刻な失敗があれば、メディアや世論からひどい反動が起こりかねなかった。

ネットスケープ以降の僕らの最初の躍進は、5月7日に起こった。コーレル・コンピュータ(Corel Computer)が、Linuxベースのネットワーク・コンピュータ、ネットワインダー(Netwinder)を発表したんだ。でもそれだけじゃ十分じゃなかった。その場を凌ぐため、僕らにはハングリーな二流企業じゃなくて、業界上位の企業からのコミットメントが必要だった。この危うい状況を本当に終わらせてくれたのは、7月半ばのオラクル(Oracle)とインフォミックス(Infomix)の発表だったんだ。

データベース業界が、Linux側に加わってくれたのは予想よりも3ヶ月も早かった。決して早すぎたというわけじゃないけどね。僕らは、メジャーな独立系ソフトウェア・ベンダーのサポートなしにどれだけいままでの肯定的な噂が続くものかずっと考えていたし、実際にそのようなベンダーがどこにいるのか考えると、ますますイライラしていたものだ。オラクルとインフォミックスがLinuxへのポーティングを発表してからというもの、他のベンダーもほとんど当たり前のことのようにLinuxサポートをアナウンスし始めたし、Mozillaの失敗さえも持ち直してきたんだ。

7月半ば以降11月始めまでは、体制固めの段階だった。この間、エコノミストの記事やフォーブスの巻頭特集を始めとして、僕が最初から目標としていた一流メディアが、そこそこ着実に報道しているのがわかった。様々なソフトウェア、ハードウェア・ベンダーが、オープン・ソース・コミュニティと接触し、オープン・ソース・モデルによって優位を得るための戦略をたて始めた。でもソースを公開しないベンダーのうちで最も大きいあの会社の内部では、真剣に心配し始めていた。

どれくらい心配していたかは、今や有名な「ハロウィーン文書」(注 http://www.opensource.org/halloween.html)がマイクロソフトから外部にリークされたことで明らかになった。

ハロウィーン文書は、まさに爆弾だった。これはLinuxの成功によって多くのものを失いかけている会社からオープン・ソース方式の開発のもつ強みにたいして贈られた、派手な証書みたいなものだ。そしてこれは多くの人々に、Linuxの成功を止めるためにマイクロソフトが考えていた策略にたいして、深い疑念をしっかりと抱かせることになった。

ハロウィーン文書は11月はじめの数週間というもの、ものすごい量のマスコミの取材を引きつけた。この文書は、偶然にも僕らが何ヶ月もの間主張してきたことすべてを確証して、オープン・ソース現象に対する興味をさらに高めたというわけ。そしてメリル・リンチ(Merryll Lynch)の主だった投資家グループと、ソフトウェア産業の状況とオープン・ソースに対する期待について話し合うよう要請されたんだけど、それはこの文書が直接もたらした結果だったんだ。

ついにウォール街が、僕らの前にあらわれたというわけさ。

-地に足ついた事実

オープン・ソース運動の「空中戦」がメディアの中で展開されている間に、地上における重要な技術・市場要因もまた変化していた。そこで、それらのいくつかを手短かに振り返ってみようと思う。というのもそれらの要因は、報道関係者や世論の認識の流れと面白い具合に組み合わさってくるからなんだ。

ネットスケープの発表から10ヶ月が経って、Linuxは早いペースでその能力を高めていた。堅牢な対称型マルチ・プロセシング・サポートの開発と効率的な64ビット・クリーン化の完成が、将来に向けての重要な土台づくりになった。

映画「タイタニック」のレンダリングに使われている部屋いっぱいのLinuxマシンの群れは、高価なグラフィック・エンジンの開発元に健全な恐怖を味あわせた。安価なハードウェアを使ってスーパーコンピュータを実現するベイオウルフ・プロジェクト(the Beowulf Project)(訳注 http://www.beowulf.org/)では、Linuxの人海戦術的なやり方が、最先端の科学計算分野にさえもうまく応用できることがわかった。

Linuxオープン・ソースの競争相手がスポットライトを浴びるようなドラマティックなことは、何も起こらなかったし、プロプライエタリな Unixはそのマーケット・シェアを失いっぱなしだった。事実この年の中頃には、ウィンドウズNTとLinuxだけがフォーチュン500企業を相手にしたマーケットでのシェアを実際にのばしていたし、秋の終わりにはLinuxの方がシェアの伸びが早かった。

アパッチ(Appache)は、相変わらずウェブサーバー・マーケットでそのリードを広げていた。11月には、ネットスケープのブラウザがマーケット・シェアの低下に歯止めをかけて、インターネット・エクスプローラに差をつけ始めた。

-未来へ

さてここまで僕は、記録を残すために本当に部分的にではあれ、ここ最近の歴史を振り返ってきた。もっと大切なことに、これまでの部分は僕らがこの先のトレンドについて理解し、将来について多少の予測ができるよう予備知識を与えてくれる(これを書いている今は1998年12月半ばだよ)。

まず最初に、来年についての無難な予言から・・・

・PCハードウェアとインターネット接続がますます安くなって成長が煽られるから、オープン・ソースのデベロッパーの数は爆発的に増え続けるだろう。
・Linuxは、そのデベロッパー・コミュニティの規模の相対的な大きさを活かして、より高度な技能水準を誇るオープン・ソースBSD陣営や小さなHURD陣営を圧倒して、先頭に立ち続けるだろう。
・独立系ソフトウェア・ベンダーによるLinuxプラットフォーム・サポートへのかかわりはドラスティックに増えるだろう。これは、データベースのベンダーの参加がきっかけだった。そしてLinux版の完全なオフィス・スイートを出荷したコーレルの参加によって、この方向は定まったわけ。
・オープン・ソース運動は今後も勝利を重ね、最高経営責任者/最高技術責任者/最高情報システム責任者系、あるいは投資家たちの認知度を高めることができるだろう。そのため経営情報システム部のトップは、下からではなく上からオープン・ソース製品導入のプレッシャーを受けることになるだろう。
・密かに進んでいるサンバ(Linux-Samba)(訳注 http://samba.anu.edu.au/)の展開が、かなりの数のNTマシンを-オール・マイクロソフト主義の店鋪においてさえ-入れ替えることになるだろう。
・プロプライエタリなUnixのマーケット・シェアは、徐々に侵食されてゆくだろう。最終的には(DG-UXやHP-UXのような)脆弱な製品のうちの一つは、実際に潰れることになるだろう。しかしそのようなことが起こるまでにアナリストたちは、それがマイクロソフトによるものではなく、 Linuxによるものと考えるだろう。
・マイクロソフトは、企業向けオペレーティング・システムをもつに至らないだろう。ウィンドウズ2000は、まともな製品として出荷されることはないだろうからね。(6000万ステップのコードで、しかもまだ増えているんだ。開発は収拾がつかなくなっているよ。)

さてこれらの傾向から、(18から32ヶ月先の)ちょっときわどい予測がいくつか出てくるよね。

・オープン・ソース・オペレーティング・システムを商業利用する顧客に対するサポート業務が、ビジネス向けのブームに火をつけ、油を注ぐことになるだろう。
・(Linuxをはじめとして)オープン・ソースのオペレーティング・システムは、インターネット接続業者とビジネス用データ・センター向け市場を掌握するだろう。NTは、この変化にうまく対抗することはできないだろう。低コスト、オープン・ソース、そして24/7(twenty- four/seven)(訳注 1日24時間で7日間稼動)の信頼性にはかなわないってことの証明だね。
・プロプライエタリなUnixは、ほとんど完全に崩壊しているだろう。ソラリス(Solaris)は、サン(Sun)のハイ・エンドのマシンで生き残れるだろうけど、他のほとんどのプロプライエタリなシステムは、さっさと過去の遺物になるだろう
・ウィンドウズ2000は、開発が中止されるか、登場と同時に息を引き取ることになるだろう。いずれにせよ、それはただのがらくた、そしてマイクロソフトの歴史の中でも最悪の戦略的失敗ということになるだろう。しかしそれでもこの先2年間は、デスクトップ市場のシェアにはほとんど影響しないだろう。

ちょっと見たところこれらの傾向は、Linuxを最後まで生き残らせるようなレシピみたいだよね。でも世の中っていうのはそんなに単純なものじゃない(それにマイクロソフトはデスクトップ市場から莫大なカネと影響力を引き出しているし、たとえウィンドウズ2000ががらくたになった後でも、マイクロソフトが簡単には市場から消えたりはしないだろう)。

2年後以降ということになると、魔法の水晶玉は少しぼやけてくる。これにはいくつかの将来のうち、どれが実際に起こるかということに絡んでくるからね。司法省はマイクロソフトを分割するのだろうか? BeOS、OS/2、MacOS/X、その他のニッチなクローズド・ソースOSあるいは全く新しいデザインのOSが、オープンソース化に活路を見い出して、30年の歴史を持つLinuxの基本デザインと実際に競合してゆけるのだろうか? 2000年関連の問題は、すべての人の予定表を吹っ飛ばして、世界経済を深刻な不況へと導いてしまうのだろうか?

これらの未来はどれも、まあどうでもいいことに属するかもしれない。でも思案するに値する、こんな疑問もある。それは、Linuxコミュニティは本当に、エンド・ユーザーに優しく、システム全体をカバーするGUIインターフェイスを提供できるだろうか?というもの。

僕の考えでは、2年後以降の最もありがちなシナリオというのは、Linuxがサーバー、データ・センター、インターネット・サービス・プロバイダーそしてインターネットをしっかりとコントロールし、マイクロソフトはデスクトップ市場をがっちり握っているというものだろう。話がこの先どうなるのかは、GNOME、KDEその他のLinuxベースのGUI(そしてそのGUIを使えるように構築あるいは再構築されたアプリケーション)が、マイクロソフトに彼らの牛耳るデスクトップ市場で挑戦することができるまでになるかどうか、にかかってくる。

もしこれが単に技術的な面が問題なら、その結果はまぎれもなく明らかだ。でもこれはそういう問題じゃない。人間工学的なデザインとインターフェイスにかんする心理学が要求されるし、ハッカー達が伝統的に苦手としてきたところなわけ。これはつまり、ハッカーはハッカーのためのインターフェイスをデザインするのは得意なんだけど、エンド・ユーザーのJ. RandomとAunt Tilieがお金を払って買うようなインターフェースを作るために必要な、ハッカー以外の、つまり全人口の95%の人がもつ思考の仕方をまねるのが、下手だっていうのがあるからなんだ。

アプリケーションが、今年(訳注 1998年)の課題だった。でも僕らが独立系ソフトウェア・ベンダーに、僕らが自分では書かないようなアプリケーションを書いてもらうように働きかけるべきだってことは明らかだ。次の2年間の課題は、インターフェイス・デザインをマッキントッシュが確立した水準に十分見合う(そしてそれを越える!)ように、伝統的なUnix流の美点を取り入れながら育てていくことだ。

僕らは、「世界を制覇する」ことについて冗談半分に話すことがあるんだけど、これは世界に奉仕することによって唯一可能になる。それは J. RandomとAunt Tilieに奉仕するということであり、僕らがやっていることについての考え方を全く新しい方法で学びなおすということであり、そしてデフォルト環境でユーザーに見えている複雑さを、それが本当に最小限になるように徹底的になくしていくことなんだ。

コンピュータはみんなのためのツールだよね。だからハードウェアやソフトウェアのデザイン上の問題というのは、究極的にはみんな-すべての人びと-のためのデザインするという所にまで、さかのぼらなくてはいけないわけ。

道のりは長くて平坦ではないだろうけど、僕らにはその責任があるし、それぞれがお互いに正しい方向に向かうようにしなくちゃいけないんだ。それじゃ、オープン・ソース運動が、いつまでも君たちとともにありますように!

The Revenge of the Hackers. Copyright (C) 1998, Eric S. Raymond
「ハッカーの逆襲」 Japanese Translation Copyright (C) 1999, Yushi INABA

「ハッカーの逆襲」は、Eric S. Raymond, 1998. The Revenge of the Hackers. In Chris DiBoba, Sam Ockman and Mark Stone Eds., 1999. Open Sources: Voices from the Open Source Revolution. Sebastopol, CA: O'Reilly.の翻訳です。

"The Revenge of the Hackers" is free; you can redistribute them and/or modify them under the terms of the GNU General Public License as published as by the Free Software Foundation; either version 2 of the License, or (at your option) any later version. This essay is distributed in the hope that it will be useful, but WITHOUT ANY WARRANTY; without even the implied warranty of MERCHANTABILITY or FITNESS FOR A PARTICULAR PURPOSE. See the GNU General Public License for more details.

「ハッカーの逆襲」はフリー・ソフトウェアです。あなたは、Free Software Foundation が公表したGNU 一般公有使用許諾の「バージョン2」或いはそれ以降の各バージョンの中からいずれかを選択し、そのバージョンが定める条項に従って本プログラムを再頒布または変更することができます。

本プログラムは有用とは思いますが、頒布にあたっては、市場性及び特定目的適合性についての暗黙の保証を含めて、いかなる保証も行ないません。詳細についてはGNU 一般公有使用許諾書をお読みください。

あなたは、本プログラムと一緒にGNU 一般公有使用許諾の写しを受け取っているはずです。そうでない場合は、 59 Temple Place - Suite 330, Boston, MA 02111-1307, USAへ手紙を書いてください。

GNU 一般公有使用許諾「バージョン2」日本語訳

訳者あとがき

オープン・ソース運動に対する注目が高まっています。1984年に始まったフリー・ソフトウェア運動は、基本的にはハッカー・コミュニティの中での運動でした。「伽藍とバザール」がネット上に発表され、ネットスケープ社がそのブラウザのソース・コードを公開するまでは。しかし「革命の銃声が世界に鳴り響いた」1998年1月以降、この運動はハッカー・コミュニティだけのものにとどまらず、商用ソフトベンダーにハードウェア・メーカー、マスメディア、企業ユーザー、パーソナル・ユーザーから投資家、学者にいたるさまざまな企業・人びとを巻き込み、さらに拡大しています。

さてこの「ハッカーの逆襲」は、オープン・ソース運動の中でどのように位置づけられるのでしょうか。大雑把にいえば、筆者達が展開中のオープン・ソース運動についての中間報告兼運動のtips集といったところでしょうか。「伽藍とバザール」が、ハッカー・コミュニティの中でバザール方式のソフトウェア開発を実践するための方法論について論じたエッセイであるとすれば、このエッセイはそのムーブメントをハッカー・コミュニティの外にまで広めるために、エリックやその同志たちがとってきた方法論であるといえましょう。

「フォーチュン500企業をねらえ」とか「ボトム・アップではなく、CEO/CTO/CIOを引き込め」というくだりは、それまでのハッカーのステレオタイプを改めさせるようなたくましさが感じられます。このたくましさは、企業やメディアとのコラボレーションから学んだものなのでしょうか。とするとこの運動は、これからも多くの参加者を巻き込んでまだまだ進化していきそうで、今後の展開が楽しみです。

このエッセイのなかでふれられた文献(「伽藍とバザール」や「ハロウィーン文書」など)は、山形浩生さんのサイト(http://www.post1.com/home/hiyori13/jindex.html)で翻訳を読むことが出来ます。山形さんはまた「プロジェクト杉田玄白(情報や知的資産の共有をめざして、いろんな本や文書を翻訳して公開しちゃうプロジェクト。 http://www.genpaku.org/ )」というプロジェクトを主宰しています(この翻訳もプロジェクト参加作品です)。

最後に、この翻訳の底本になった「オープン・ソース(DiBoba, Chris, Sam Ockman and Mark Stone, 1999. Open Sources: Voices from the Open Source Revolution. Sebastopol, CA: O'Reilly. http://www.oreilly.com/catalog/opensources/)」について。この本は、オープン・ソース運動の旗手となった人びとによるエッセイ集です。Richard Stallman (FSF)、Linus Torvalds、Tim O'Reilly、Bruce Perence (Open Source Initiative)、Larry Wall (Perl)、Brian Behlendorf (Apache)、Tom Paquin (mozilla.org)、Bob Young (Red Hat)らが語る、理念と戦略、そして運動の実際。興味のある方は是非、ご覧下さい(って、私は出版者のまわし者というわけではありません)。

1999年6月 Cambridge, U. K. 稲葉祐之

P.S. 倉骨 彰氏翻訳による日本語版(html版は、http://www.oreilly.co.jp/BOOK/osp/OpenSource_Web_Version/Web_version000106.html)がオライリー・ジャパンから7月に出版されています。

日本語版 更新履歴

コメントを戴いた方々に感謝します。

1999年11月15日 プロジェクト杉田玄白のサイトと、倉骨氏訳のhtml版「オープンソース」にリンク。

1999年 7月 2日 プロプライエタリ(proprietary)という言葉に訳注をつける。ついでに訳文に少し手を入れた。

1999年 6月29日 更新とは関係ないけど、中元崇氏と黒木掲示板メンバーの手になるもう一つの翻訳「ハッカーの復讐」完成。

1999年 6月23日 山形浩生氏から誤訳の指摘とともに黒木掲示板メンバーが進めていた翻訳の原稿を戴いたので、一部訂正。

1999年 6月20日 初版公開。

Yushi INABA <ku.ca.mac.suc|502iy#ku.ca.mac.suc|502iy>

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