Why Freeware Is Better Than Open Source

「フリーソフトウェア」が「オープンソース」より好ましい理由

著者: Richard Stallman

日本語訳: yomoyomo

以下の文章は、Richard M. Stallman による、Why “Free Software” is better than “Open Source” の日本語訳である(最終更新日が2002年3月9日のものがテキスト)。

本翻訳文書について、武井伸光さんから誤訳の指摘をしていただきました。ありがとうございました。

1998年、フリーソフトウェア・コミュニティの一部の人間が、自分たちがやっていることを表現するのに、「フリーソフトウェア」のかわりに「オープンソースソフトウェア」という用語を用い始めた。

どういう名前を使おうともフリーソフトウェアから自由を享受できるけれども、実際は用いる名前で大きな違いがでている。異なる言葉が異なる意味を伝達しているのだ。「オープンソース」という用語は、フリーソフトウェアとは別のアプローチ、別の哲学、別の価値観、そしてライセンスが許容する別の基準とまでもすぐに結びついてしまった。同じプロジェクトで実際に一緒に作業を行うのは可能だが、フリーソフトウェア運動とオープンソース運動は、今では事実上別々の運動になっている。

この文章では、「オープンソース」という用語を用いたら何も問題の解決にならず、それどころか問題を生み出してしまう理由を説明する。それが「フリーソフトウェア」という用語に固執すべき理由となる。
両義性

「フリーソフトウェア」という用語は、両義性の問題を有する。すなわち、ユーザに確固たる自由を与えるソフトウェア、という意図された意味だけでなく、「無料で手に入れられるソフトウェア」という意図せぬ意味も持ってしまう。我々はフリーソフトウェアのより厳密な定義を公開してこの問題に言及しているが、これは不完全な解決法にすぎない。つまり、この問題を完璧に取り除くのは不可能である。他の問題がないなら、一義的に正確な用語あればよいのだけど。

残念なことに、代替となるもの全てに、それぞれ問題がある。提案されてきた多くの代替表現を見てきたし、この問題を回避するものもあったが、別の問題を抱えてしまう。それに切り替えてよいような、完全に「正しい」ものは一つもない。「フリーソフトウェア」に替わって提案されたもの全てが、似た種類の意味上の問題があるが、さもなくばさらに悪化してしまう — これに「オープンソース・ソフトウェア」も含まれる。

「オープンソースソフトウェア」の明白な意味は、「そのソースコードを見ることが出来る」というものである。これは「フリーソフトウェア」よりもずっと緩い基準であって、フリーソフトウェアも含むが、Xv のようなセミフリーなソフトウェアや(QPL になる前の)元々のライセンス下の Qt を含む一部の独占プログラムまで含んでしまう。

「オープンソース」が明白に持つ意味は、その主唱者が意図する意味ではない(彼らの「公式な」定義なら「フリーソフトウェア」にずっと近い)。その結果、人々はしばしば彼らが擁護しているものを誤解している。ここで Neal Stephenson による「オープンソース」の定義を紹介する:

Linux は「オープンソース」ソフトウェアで、簡単に言えば、誰もがそのソースコード・ファイルのコピーを入手できるということである。

私は、彼が故意に「公式な」定義を拒絶したり、それに異議を唱えようとしているのではないと思う。私が思うに、彼はその用語が持つ意味から考え付くことを、英語の約束事に単に当てはめたのだろう。カンザス州も、同様の定義を公開した:

オープンソース・ソフトウェア(OSS)を利用すること。特定のライセンス契約ではそのコードに関して許可されることが変わるが、OSS とはソースコードが自由に、かつ公に入手可能であるソフトウェアのことである。

もちろん、オープンソース陣営の人達は、ちょうど我々が「フリーソフトウェア」という用語についてやってきたように、用語の正しい定義を公開することにより、対処しようとしてきた。

でも、「フリーソフトウェア」についての説明は簡単で — 「言論の自由(free speech)の free であり、無料ビール(free beer)の free ではない」と聞いた人なら、二度と間違わないはずだ。「オープンソース」の公式な定義の意味するところを解説する有効な手段がないというのが、(言葉から受ける)自然な定義が間違ったものである証拠となっている。
自由という恐怖

「オープンソースソフトウェア」という用語を用いる主な論拠は、「フリーソフトウェア」という用語に不安を覚える人たちがいることにある。これは正しい。つまり、自由について語ること、倫理上の問題について語ること、便利性と同様に信頼性について語ることは、無視したい事項について考えるよう人々に要求することになる。これが不快さを引き起こしうるし、自由に関する考えを拒絶する人がいるかもしれない。だがもし我々がこのことについての議論を止めたら、社会はよりよい方向には進まない。

かつて、フリーソフトウェアの開発者はこの不快な反響に気付き、一部はそれを避けるアプローチを探求し始めた。彼らは倫理や自由といったことに沈黙し、かわりに特定のフリーソフトウェアの即時的で現実的な利益についてのみ語ることで、特定のユーザ、特にビジネス層により効果的にソフトウェアを「売る」ことができると思った。「オープンソース」という用語はこれをよりよく実行する方法、すなわち「よりビジネスに受け入れられやすい」方法として捉えられている。

このアプローチは、その点に関しては効果を果たした。今日多くの人々が純粋に実用性を理由に、フリーソフトウェアに乗り換えている。これはある範囲内では良いことであるが、それが我々がなすべきことの全てではないんだ! ユーザをフリーソフトウェアにひきつけることが全てではなく、第一歩に過ぎない。

遅かれ早かれこうしたユーザは現実的な優位性により独占ソフトウェアに引き戻されるよう促されるだろう。無数の企業がそうした誘惑をしかけるが、フリーソフトウェアが与える自由を尊重することを学んだというだけで、どうしてユーザがその誘いを断れるだろう? 我々は考えを押し広げなければならない。そして、そのために自由について語らなければならない。ビジネス層に対するいくばくかの「沈黙」アプローチは我々のコミュニティにとって有効かもしれないが、我々は自由についてもたっぷり語らなくてはならないのだ。

目下、我々は「沈黙」を多くの場面でやっているが、十分な自由についての討議がなされていない。フリーソフトウェアに関係する大部分の人は、大抵において「ビジネスにより受け入れられやすい」ことを求めるが故に、自由に関して殆ど語ろうとしない。ソフトウェア販売業者においては特にその傾向が見受けられる。一部の GNU/Linux OS ディストリビューションは、元来フリーなシステムに独占パッケージを付加し、自由に立ち戻るよりもその利点を考慮するようユーザを誘いかけている。

我々はフリーソフトウェアのユーザの流入についていけなくなっており、彼らがコミュニティに加わってすぐに自由と我々のコミュニティについて教示することに失敗している。これこそが、フリーでないソフトウェア(Qt もポピュラーになった当初はそうだった)や部分的にフリーでない OS のディストリビューションが多大な利益を生み出している理由なのだ。今「自由」という単語を使うのを止めるというのは間違いに違いない。我々はもっと自由について語る必要があるのだ。

「オープンソース」という用語を使う人々が、実際により多くのユーザを我々のコミュニティに引き込むことを希望しようではないか。しかし、もしそうなるとしても、残りの我々はユーザの注意を自由の問題にひきつけるために、更に熱心に働かなくてはならないだろう。我々は、以前にもましてより声を大にして、「それはフリーソフトウェアであり、それこそがあなたたちに自由を与える!」と言わなくてはならない。
商標が助けてくれる?

「オープンソースソフトウェア」の主唱者は、その用語を商標にしようとし、それで悪用を防ぐことができると主張した。その試みは、1999年に出願が失効したときに失敗してしまった。かように「オープンソース」の法的な地位は、「フリーソフトウェア」のそれと同じになっているわけだ。つまり、その用語を用いることにいかなる法的な制約もないということだ。私は、かなりの数の企業が、ソフトウェアパッケージを公式の定義には適合しないにも関わらず「オープンソース」と呼んでいるという報告を聞いたことがある。私自身が目撃した例を挙げよう。

しかし、商標である用語を用いるということで大きな差異が生じただろうか? 必ずしもそうとは言えない。

企業は、言葉にだしてはっきりとそう言うでなしに、プログラムが「オープンソースソフトウェア」であるという印象を与える広告もやっている。例えば、ある IBM のアナウンスにおいて、公式な定義に適合しないプログラムについてこれがなされていて、アナウンスによると、

オープンソースコミュニティと同様に、・・・技術のユーザは、IBM とも共同作業可能になる・・・

プログラムが「オープンソース」であるとは実際には言ってないが、多くの読者は詳細には気付かなかった(IBM が真摯にこのプログラムをフリーソフトウェアにしようとしていて、後にそれをフリーソフトウェアであり「オープンソース」にする新しいライセンスを取り入れたことには触れておくべきであるが、発表がなされたときには、そのプログラムはそのどちらの資格も満たしてなかった)。

さてここで、フリーソフトウェア企業になるべく創設され、後に独占ソフトウェアに(言わば)手を伸ばしたシグナス・ソリューションズ社が、どうやって彼らの独占ソフトウェア製品の一部を広告したかを見てみる。

「シグナス・ソリューションズは、オープンソース市場におけるリーダーであり、[GNU/]Linux 市場に二つの製品を投入したばかりだ。」

IBM と異なり、シグナス社はこれらのパッケージをフリーソフトウェアにする努力をしていないし、その資格に近づこうとしていない。シグナス社は実際に、これらが「オープンソースソフトウェア」であるとは言ってなく、注意が足らない読者にそうした印象を与える用語を使っているだけなのだ。

以上の観察から分かるのは、商標によって、「オープンソース」という用語に関する問題が本当に解決しやしないことである。
「オープンソース」の誤解(?)

オープンソースの定義は十分に明快であり、典型的なフリーでないプログラムがその資格を得ないということはまったくもって明らかである。そこで我々は、「オープンソース企業」というのが、製品がフリーソフトウェア(かもしくは、それに近いもの)である企業を意味すると考えるよね? 嗚呼、多くの企業はそれに違った意味を与えようとしているんだよ。

1998年8月に開かれた「オープンソース・ディペロッパー・デイ」会合において、招待された複数の商業ディペロッパーが、自分達の仕事のほんの一部をフリーソフトウェア(もしくは、「オープンソース」)にするつもりであると語った。彼らのビジネスの焦点は、フリーソフトウェアのユーザに売るための、独占アドオン(ソフトウェアもしくはマニュアル)の開発にある。彼らは上記の活動を、そこから得られるお金の一部はフリーソフトウェアの開発に寄付されるのだから、我々のコミュニティの一部に適っているとみなすよう求めた。

要するに、これらの企業は彼らの独占ソフトウェア製品に対して、「オープンソース」という好意的なお墨付きを得ようと努めているのだ。たとえそれらが「オープンソースソフトウェア」でなくても、フリーソフトウェアといくらか関係があるか、もしくは同じ会社がフリーソフトウェアも支持をしているという理由で。(ある企業の創業者は、彼らがサポートするフリーソフトウェアにおけるそうした仕事を、出来る限り少なくやりおおしたいと明白に言った)

幾年に渡り、多くの企業がフリーソフトウェア開発に貢献してきた。これらの企業の一部は、主としてフリーでないソフトウェアを開発したが、その二つの活動は分離していた。だから、我々はフリーでない製品を線引きして彼らとフリーソフトウェア事業において共に働くことができた。そして、彼らが他でやってることに論議することなしに、正直に彼らのフリーソフトウェアへの貢献に対し後に感謝できたのだ。

我々はこれら新しい企業と同じ事はできない。何故なら彼らはフリーソフトウェアを前進させはしないからだ。こうした企業は積極的に大衆が彼らの全ての活動を一まとめに考えるように導こうとする。つまり、彼らはフリーでないソフトウェアを、実際はそうでないにもかかわらず我々への貢献であると認めさせたいのだ。我々が暖かくも曖昧な感情を持ち、その曖昧な考え故に本当にフリーソフトウェアに適合するのか区別できなくなることを望みながら、自分たちのことを「オープンソース企業」であると見せたいのだ。

もし彼らがそうした製品に「フリーソフトウェア」という用語を用いたなら、ごまかしの手法による欺瞞に違いない。しかし、企業は「フリーソフトウェア」という用語をそのようには用いないようだ。恐らくはその用語の理想主義との兼ね合いで相容れないように思える。「オープンソース」という用語は、悪用にドアを開け放ってしまったのだ。

1998年末の、しばしば「Linux」と言及される OS のためのトレードショーの場で、基調講演の講演者は、著名なソフトウェア企業の重役だった。彼は多分、彼の会社がそのシステムを「サポート」するという決定をしたために招かれたのだろう。不幸にも、彼らがいうところの「サポート」とは、そのシステムで稼動するフリーでないソフトウェアの発表からなっている。言い換えれば、我々のコミュニティを市場として利用するのであって、コミュニティに貢献するのではないのだ。

彼は言った。「我々はオープンソースの製品を作りはしないが、多分「内部的」にはオープンソースにするだろう。もし我々が、顧客サポートスタッフにソースコードへのアクセスを許すなら、彼らは顧客のためにバグをつぶし、よりよい製品とよりよいサービスを提供できるだろう」(私は彼の言葉を書き取っていなかったので、これは正確な引用ではないが、趣旨は押さえている。)

聴衆の何人かは後で「彼はポイントを押さえてないだけだよ」と私に語った。でもそうなのか? どのポイントを彼は押さえてなかったのだろう?

彼は、オープンソース運動のポイントを見落としてはいなかった。その用語は自由について何も語っていないのだ。それはより多くの人々がソースコードを見ることで、より早くよりよい開発の助けになることしか語ってない。この重役は、そうしたポイントを完璧に把握していた。だから、ユーザも含め全面的にこのアプローチを実行するでなしに、彼はそれを一部、すなわち会社内のみで実行するよう考えているのだ。

彼が見落としていたのは、「オープンソース」という用語が、ユーザが自由を主張する権利がある、ということを表立たせないように意図されたものであるということだ。

自由に関する理解を広げることは、あなた方の助けを必要とする重要な仕事だ。GNU プロジェクトは「フリーソフトウェア」という用語を貫く。もし、あなたが自由やコミュニティというものが、用語がもたらす都合の良さのためでなく、自身の利益にとって重要だと思うのなら、「フリーソフトウェア」という用語を使い、我々に加わっていただきたい。
フリーソフトウェア運動とオープンソース運動の関係

フリーソフトウェア運動とオープンソース運動は、フリーソフトウェア・コミュニティ内部の二つの政治的陣営のようである。

1960年代生まれの急進的な集団は、党派心が強いという評判を広めた。彼らが戦略の細かいところでの不一致があるから組織を分裂させ、お互いに憎み合うのだ。彼らは基本理念では意見が一致していて、現実的な利点においてのみ意見が合わないのだ。それなのに彼らはお互いを憎み合い、死力を尽くして戦う。そうでなくとも、少なくともそうしたところが、それが正しいかどうかに関わらず、人々が持つイメージなのだ。

フリーソフトウェア運動とオープンソース運動の関係は、コインの裏表に過ぎない。我々は基本理念について不一致なのだが、大体の現実的な利点においては多かれ少なかれ意見が一致している。だから我々はたくさんの具体的なプロジェクトにおいて一緒に作業を行っている。我々は、オープンソース運動を敵だとは思ってない。敵は独占ソフトウェアなのだ。

我々はオープンソース運動を敵視してはいないが、彼らと一まとめにはされたくない。彼らが我々のコミュニティに貢献してきたことは我々も認めるが、コミュニティを作ったのは我々なのだ。我々としては、我々の功績と、我々の価値観と哲学とを結びつけて考えてもらいたいのだ。異なる考え方に妨げられることなしに、我々の言うことを聞いてもらいたいのだ。

だから、我々が成し遂げてきた業績や我々が開発してきたソフトウェア、例えば GNU/Linux オペレーティング・システムなどを話題にする場合は、どうかフリーソフトウェア運動に言及していただきたい。

Joe Barr が、この問題に関する展望を述べた、Live and let license という文章を書いている。

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初出公開: 1999年04月04日、 最終更新日: 2003年06月12日
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日本語訳: yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)
プロジェクト杉田玄白正式参加テキスト

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